最低賃金1,500円時代に向けた人事戦略~「持続可能な賃金設計」の実践ポイント~

この記事の内容をAI「NotebookLM」が音声で解説しています。

1. はじめに

皆さん、こんにちは。特定社会保険労務士の山根敦夫です。

日本の賃金制度は今、かつてない転換点を迎えています。 政府は「骨太の方針」等において、2020年代に最低賃金の全国平均を1,500円とする高い目標を掲げており、その実現に向けた動きは加速する一方です。記憶に新しい2024年度の引き上げ(全国加重平均1,055円)に続き、本年2025年度もさらなる引き上げが実施されました。この急速な最低賃金の上昇ペースは、中小企業の人事賃金制度に深刻な影響を与え始めています。

採用活動においては、初任給の競争力が低下し、優秀な人材の確保が以前にも増して困難になっています。また、社内に目を向けると、既存社員との賃金バランスが崩れたことで中堅社員の不満が高まり、離職につながるケースも散見されます。さらに、転職市場の活況を背景に、特に20代から30代の若手社員が、より良い条件を求めて流動化する傾向も強まっています。

本記事では、こうした激しい環境変化の中で、中小企業がどのように賃金制度を見直し、人材の採用と定着を実現していくべきか、その具体的な方策をご紹介します。

( Notebook LMにて作成 )

2. 最低賃金大幅引き上げで発生している課題

2-1. 賃金カーブの平坦化と既存社員の不満

最低賃金の急激な上昇により、初任給は大幅に引き上げられる一方で、既存社員の定期昇給額が抑制される傾向にあります。その結果、勤続年数や経験に応じた賃金の上昇カーブが緩やかになり、先輩社員と後輩社員の賃金差が縮小しています。

産労総合研究所の調査によれば、2025年度の決定初任給は大卒で239,280円となっています。地方の中小企業では、この全国平均との差が採用活動における大きな障壁となっているケースが多く見られます。

この賃金カーブの平坦化は、中堅社員のモチベーション低下を招いています。これまで会社の中核を担ってきた人材の離職につながるケースも増えており、企業にとって深刻な問題となっています。

2-2. 中途採用市場とのミスマッチ

リクルートの調査によれば、2024年10月から12月期において、転職者の35.8%が転職により賃金が1割以上増加しています。また、一般社団法人日本経営協会の調査では、若手社会人の55%が「好条件なら転職したい」(48.3%)または「多少条件が悪くても転職したい」(6.7%)と回答しており、転職に対する心理的ハードルは大きく低下しています。

既存社員の賃金が据え置かれる一方で、中途採用市場の賃金相場は上昇しているため、中途採用者と既存社員の賃金に大きなギャップが発生することがあります。特にデジタル系の専門職や特定の資格保有者については、市場価値が高く、正社員の処遇システムに合わない事例も見られます。

2-3. 昇給へのモチベーション低下

最低賃金の急激な上昇により、若手社員は自動的に大きな昇給を得られる環境にあります。その結果、能力向上や職務拡大を通じて給与を上げようとするモチベーションが相対的に低下する傾向が見られます。

特にパートタイマーにおいてこの傾向が顕著です。従来は能力向上によって時給を上げることが目標となっていましたが、最低賃金の引き上げによって自動的に時給が上がるため、スキルアップへの意欲が減退するケースが報告されています。

3. 中小企業が整備すべき人事賃金制度の基本

3-1. 等級制度の整備

人事制度の背骨となるのが等級制度です。等級制度は、社員の貢献度の違いを明確にし、それに基づいて処遇を決定するための基準となります。中小企業においては、複雑な制度よりも、シンプルで分かりやすい「3+1」の等級制度が推奨されます。

具体的には、育成中社員、定型業務担当者、非定型業務対応者の3段階に、管理者を加えた4段階の構成です。これにより、社員の成長段階が明確になり、どのような能力や役割が期待されているかを示すことができます。

等級制度を設計する際には、「自社における社員の貢献度の違いは何か」という根本的な問いから始めることが重要です。能力を基準とする職能資格制度、役割を基準とする役割等級制度、職務価値を基準とする職務等級制度など、様々な選択肢がありますが、中小企業では能力基準で検討することが多く、新入社員を育成していくための教育制度として機能させることができます。

3-2. 賃金制度の基本設計

賃金制度の原則は、等級別に基本給の上限額と下限額を設定する「範囲給制度」です。各等級の貢献度の高さに対応する相場と、等級間の相対的バランス、実在者とのバランスで総合的に決定します。

最下位の等級の下限金額は初任給、最上位の等級の上限金額は役員とのバランスで設定します。同一等級に滞留すれば、どこかで上限に到達し、昇給が停止します。逆に優秀な社員は下限未達での昇格、いわゆる特別昇給を繰り返すことができる仕組みとなります。

近年は、等級別の基本給レンジの中で昇給表に基づいて実施することが一般的です。評価に応じて昇給額を変え、さらにゾーンという考え方を入れて長期滞留者の昇給を抑制するケースもあります。

3-3. 早期立ち上げカーブへの移行

従来の賃金制度は、終身雇用を前提とした生活給発想がベースにあり、20代の昇給を抑制し、徐々に賃金が上昇する設計がなされてきました。しかし、転職市場の活況に伴い、20代から30代を中心に中途採用市場の賃金も上昇しているため、賃金の伸びを早期立ち上げカーブに合わせる必要があります。

具体的には、定期昇給においてゾーン別昇給や若手加算を行う方法があります。例えば、基本給の水準によって下ゾーンと上ゾーンに分け、下ゾーンの社員には高い昇給額を設定し、上ゾーンの社員には抑制的な昇給額を設定することで、若手の早期育成と賃金上昇を実現します。

また、18歳から30歳、31歳から35歳といった年齢区分で若年者加算を設け、若手社員の基本給を底上げする方法も効果的です。

4. 賃金引き上げ原資の確保策

4-1. 賞与原資の基本給への移管

近年増加しているのが、賞与原資を基本給に移管する手法です。実際のコンサルティング事例では、前年度の賞与支給実績4.6か月を3.0か月に引き下げ、1.6か月相当分を基本給に移管することで、新入社員で25,000円、管理職クラスで50,000円から70,000円程度のベースアップを実施したケースがあります。

この方法は、物価高騰に対応するため、安定的な月額給与を重視する労働組合の要望にも応えることができます。また、求職者は年収よりも月額給与を重視する傾向があるため、採用競争力の向上にもつながります。

4-2. 退職金制度の見直しと前払い退職金

急激な賃金水準の上昇と求職者の月額賃金への関心の高まりを受け、退職金の水準を引き下げ、その差額原資を前払い退職金として毎月の給与に上乗せする事例も増加しています。

具体的には、従来の退職金水準を半分程度に引き下げ、前払い退職金として月額10,000円程度を支給します。ただし、退職金は税制面で優遇されているため、これを賃金として支給すると社会保険料および所得税により手取りが減少します。そのため、選択制確定拠出年金制度を導入し、社員が掛け金として拠出するか、賃金として受け取るかを選択できるようにすることが推奨されます。

4-3. 固定残業手当の縮小

中小企業では固定残業制度を導入しているケースが多いですが、労働時間の短縮傾向により、実際の残業時間が固定残業の設定時間よりも短くなっていることが多くなっています。また、30時間や40時間といった長時間の固定残業は、採用活動においてマイナスに働くことがあります。

例えば、30時間分の固定残業代を20時間分に減らし、その分を基本給のベースアップに充てることで、初任給の競争力を高めることができます。今後は多くの企業で労働時間短縮が進んでいるため、持ち出しコストは意外に少ないことが多いのが実情です。

5. 賃金以外で検討すべき採用・定着施策

5-1. 福利厚生の充実

マイナビの転職活動実態調査によれば、転職先決定で重視する福利厚生・人事施策として、「退職金制度」が最も高く43.7%、次いで「家賃補助(住宅手当)」が27.3%、「有給休暇日数等の上乗せ制度」が25.5%となっています。

特に住宅支援や食事補助は、若手社員のニーズが高く、採用競争力の向上に直結します。実際に、これらの福利厚生を充実させることで、初任給が若干低くても総合的な魅力を高めることができます。

5-2. 年間休日と柔軟な働き方

年間休日120日、完全土日休みは、現在の求職者にとって重要な選択基準となっています。また、フレックスタイム制や週休3日制なども関心が高まっています。

リモートワークについては、職種による導入可否に差が出やすく、生産性の課題も残りますが、フルリモートによる遠隔地の人材の雇用も検討する価値があります。特に専門職や一部の事務職においては、勤務地に縛られない採用が可能となり、人材確保の選択肢を広げることができます。

5-3. 地域限定正社員制度の導入

マイナビの調査によれば、転職のある会社で働くことについて、「働きたくない」と「どちらかと言えば働きたくない」を合わせると65.3%に達しています。また、就業先を決める上で転勤があることを考慮した人は82.5%、将来転職の可能性があることが理由で転職を考えたことがある人は49.3%に上ります。

このような状況を踏まえ、地域限定正社員制度の導入が効果的です。一般社員クラスは地域限定とし、社命による転勤は行わないことで、採用競争力を確保します。地域限定の範囲は、自宅から通勤可能範囲とするパターンと、週末には気軽に帰ることができるエリア内限定とするパターンの2つが基本です。

一方、転勤した社員への経済的メリットを強化することも重要です。転勤者社宅の条件引き上げや入居期限の延長、帰省旅費の定額・毎月支給などの施策により、転勤を前向きに捉えられる環境を整備します。

5-4. 短時間正社員制度の活用

今後増加が予想される制度として、短時間正社員制度があります。厚生労働省の定義によれば、短時間正社員とは、フルタイム正社員と比較して1週間の所定労働時間が短い正規型の社員であって、期間の定めのない労働契約を締結し、時間当たりの基本給及び賞与・退職金等の算定方法等が同種のフルタイム正社員と同等である社員のことです。

導入パターンとしては、フルタイム正社員が育児・介護などとの両立のために短時間となるパターン、パートタイマーを正社員登用する際の受け皿、採用力強化のため採用時から短時間正社員を用意するパターンの3つが軸となります。

医療法人明和会医療福祉センターの事例では、短時間正社員制度の利用者が62名に達し、病棟で働く看護師・介護士の10%以上が短時間正社員となっています。また、男性の育児休業取得率は50%に達し、育児理由の離職も過去10年間ゼロという成果を上げています。

6. まとめ

最低賃金の大幅引き上げは、中小企業の人事賃金制度に大きな変革を迫っています。初任給の競争力確保、既存社員との賃金バランス、中途採用市場との整合性など、多くの課題に直面している企業が少なくありません。

これらの課題に対応するためには、単に賃金を引き上げるだけでなく、等級制度を整備し、貢献度に見合った処遇を実現する仕組みを構築することが重要です。また、賞与や退職金からの原資移管、固定残業手当の見直しなど、総額人件費の配分を最適化することで、限られた原資を効果的に活用することができます。

さらに、賃金だけでなく、福利厚生の充実、柔軟な働き方の導入、地域限定正社員制度や短時間正社員制度の活用など、多様な施策を組み合わせることで、採用競争力を高め、既存社員の定着を図ることが可能となります。

人口減少が進む中、今後も労働力の確保は厳しさを増していきます。しかし、人材戦略を明確にし、如何に少ない人数で価値を創造するか、如何に一人当たりの価値創出量を上げるか、如何に価値創出量の高い人材に選ばれる会社になるかという視点から、自社の人事制度を見直すことで、持続的な成長を実現することができます。

ぜひこの機会に、自社の人事賃金制度を総合的に見直し、人が辞めない、そして優秀な人材が集まる組織づくりに取り組んでいただければと思います。


(参考資料・出典)