もくじ
1. はじめに
皆さん、こんにちは。特定社会保険労務士の山根敦夫です。
近年、多くの企業で導入されている「固定残業代制度」。一定額の残業代をあらかじめ給与に組み込むこの制度は、給与計算の簡素化や労務管理の効率化などのメリットがある一方で、適切な運用がなされていないと大きな法的リスクを抱えることになります。
実際に、固定残業代に関する裁判例も増えており、制度の設計や運用に不備があると、企業側の敗訴につながるケースが少なくありません。そして、その賠償額は企業経営を脅かすほどの高額なものとなりかねません。
中小企業の経営者や人事担当者の皆様にとって、固定残業代制度の適切な設計と運用は重要な課題です。そこで今回は、最近の裁判例を踏まえた固定残業代制度の法的リスクと、その対策について解説いたします。
2. 固定残業代制度とは
2-1. 固定残業代制度の基本的な仕組み
固定残業代制度とは、あらかじめ一定時間分の残業代を基本給とは別に定額で支払う制度です。例えば「月20時間分の残業代として5万円を固定で支給する」といった形で設定されることが多く、実際の残業時間が設定時間を超えた場合は、超過分について別途残業代を支払う必要があります。
この制度は、毎月の残業時間の変動にかかわらず給与計算が簡素化できる点や、従業員にとっても一定の収入が保証される点などがメリットとされています。
2-2. 固定残業代が認められないケースとそのリスク
最高裁判例では、固定残業代の制度自体は否定されていませんが、適切な要件を満たしていない場合は「固定残業代としては認められない」という判断がなされることがあります。この場合、企業にとって非常に大きなリスクが生じます。
例えば、月所定労働時間160時間、基本給40万円、固定残業代8万円(月25時間分)の場合を考えてみましょう。仮に、労働者から過去3年間の未払残業代(各月30時間分)を請求された場合、固定残業代として認められるか認められないかで、請求額に大きな差が生じることになります。
固定残業代として認められる場合は、残業代総額337.5万円(400,000円÷160時間×1.25×30時間×36か月)から固定残業代で支払済の金額288万円(25時間分×36か月)を差し引いた49.5万円(プラス遅延損害金)が請求額となります。
一方、固定残業代として認められない場合は、基本給に固定残業代を含めた480,000円を基準に計算した残業代総額405万円(480,000円÷160時間×1.25×30時間×36か月)が全額請求される上、既払いの抗弁も認められません。場合によっては付加金の支払いを命じられることもあります。
このように、固定残業代が認められないリスクは単に差額の支払いにとどまらず、企業経営に大きな影響を与える可能性があるのです。適切な制度設計と運用が不可欠である理由はここにあります。
3. 固定残業代に関する重要判例
3-1. 固定残業代制度自体を肯定する判例
医療法人社団康心会事件(最高裁判所第二小法廷 平成29年7月7日判決)では、固定残業代制度自体は肯定されています。この判決では、「労働基準法第37条等に定められた方法により、算定された額を下回らない額の割増賃金を支払うことを義務付けるに留まるものと解され、労働者に支払われる基本給や諸手当にあらかじめ含めることにより割増賃金を支払うという方法自体が直ちに同条に反するものではない」と示されています。
つまり、労働基準法は最低基準を定めたものであり、その基準をクリアする限り、賃金の支払方法については契約自由の原則により、企業側と労働者側が自由に決めることができるという考え方です。
3-2. 固定残業代の有効要件についての判例
日本ケミカル事件(最高裁判所第一小法廷 平成30年7月19日判決)では、固定残業代の有効要件について言及されています。この判決では、「ある手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは、雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか、具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容、労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべき」としています。
また、固定残業代を上回る時間外手当が発生した場合について、その差額を直ちに請求できる仕組みが必須ではないとの判断も示されました。これは、法定の残業代が固定残業代を上回った場合に支払義務が生じるのは当然のことであり、それをわざわざ合意条項にする必要はないという考え方です。
4. 固定残業代制度の有効要件
判例から導き出される固定残業代制度の有効要件は、主に以下の3つです。
4-1. 判別要件(明確区分性要件)
給与明細や賃金台帳上など、労働者が受け取る賃金のうち、固定残業代として支払われる部分が時間外労働等に対する対価であることが明確に分かるようにしなければなりません。労働者自身が残業代を計算し、固定残業代が実際の残業時間に対する対価を上回っているか下回っているかを確認できる状態にすることが重要です。
給与明細等において「固定残業代」「時間外手当」など、明確に区分して表示することが必要です。また、どの給与項目が基礎賃金となるのかも明確に示すことが望ましいでしょう。
4-2. 対価性要件
固定残業代として支給する賃金について、あらかじめ時間外等の対価として支給することを契約内容に含める必要があります。この対価性要件を満たすためには、いくつかの重要なポイントがあります。
まず、就業規則や賃金規程における基礎賃金の算定式や割増率に誤りがないか確認することが大切です。よくある誤りとしては、基礎賃金に含めるべきでない項目を含めてしまうケースや、深夜労働や歩合給の割増率を通常の時間外労働と同じ1.25倍としてしまうケースなどがあります。これらは法令違反となる可能性があるため、注意が必要です。
次に、固定残業代の対象となる労働の範囲を明確にすることも重要です。法定時間外労働だけでなく、所定労働時間外の労働に対する対価、深夜労働に対する対価、法定休日の労働に対する対価についても充当することを定めておくと良いでしょう。例えば、祝日等で所定労働日が4日しかない週に公休日に8時間勤務した場合、週の法定労働時間を超えていなければ「法定時間外労働」には該当しませんが、この場合の所定外賃金も固定残業代に含めたいのであれば、その旨を契約内容に明記する必要があります。
さらに、就業規則に定めるだけでなく、個別労働契約でも固定残業代を支給することについて、別紙をつけるなどして理解しやすい形で説明し、合意形成をすることが望ましいです。これにより、後になって「知らなかった」「理解していなかった」という争いを防ぐことができます。
4-3. 消極的要件
固定残業代の対価となる労働時間について、実態と大きくかけ離れていないことも重要な要件です。これは明示的に定められた要件というよりも、裁判所が固定残業代の有効性を判断する際に考慮する「消極的要件」と言えるでしょう。
実際に固定残業代が否定された例として、固定残業代が基本給の70%相当額である場合があります。このようなケースでは、仮に固定残業代が時間外労働に対する対価であるとすると、100時間近い時間外労働を容認することになってしまうため、固定残業代としての性質が否定されることがあります。
また、実際の時間外労働の実績と、固定残業代の前提となる時間数が大きく乖離している場合も、固定残業代としての性質が否定されるリスクがあります。例えば、毎月5時間程度しか残業していない職場で40時間分の固定残業代を設定している場合などは、その実態から見て「残業代の前払い」とは認められない可能性があります。
日本ケミカル事件でも、基本給と固定残業代のバランスが適切であることや、時間外手当の不払いや健康悪化などの温床となる要因がないことが有効要件として示されています。つまり、固定残業代制度が労働者の健康や権利を侵害する手段として使われていないかという点も、裁判所は重視しているのです。
固定残業代制度を設計する際は、実際の残業時間の実態を踏まえ、合理的な範囲内で設定することが重要です。また、労働時間管理をしっかり行い、固定残業代を超える残業が常態化している場合は、制度の見直しを検討することも必要でしょう。
5. 固定残業代制度の運用上の注意点
5-1. 複数の割増率が異なる労働に対する対応
法定外労働に対する対価だけでなく、割増率が異なる休日手当などもあわせて固定残業代に含めることは可能です。ただし、その場合は契約書や就業規則等において、どの割増賃金に対応するものかを明確に記載することが重要です。
厚生労働省のモデル就業規則では、「1か月単位の変形労働時間制を採用している場合は、各種労働時間の定義を明確にし、各種割増賃金の支払対象となる労働時間を明らかにすることが望ましい」としています。また、所定労働時間外の残業、法定時間外の残業、深夜労働、休日労働など、それぞれの割増率が異なる労働に対応する固定残業代の内訳を明示することが望ましいでしょう。
5-2. 名称の工夫と留意点
固定残業代を「業務手当」や「役職手当」などの名称で支給する場合があります。こうした名称を使うこと自体は問題ありませんが、判別要件や対価性要件を満たすために、その手当が時間外労働等の対価であることを明確にすることが重要です。
例えば、「役職手当(うち○○円は月○○時間分の時間外労働手当)」というように、手当の中の固定残業代部分を明確に区分することが望ましいでしょう。ただし、単に「役職手当として支給する額の一部が固定残業代である」と主張するだけでは、判別要件を満たさないリスクがあります。
5-3. 時短勤務者への対応
産後休業や育児休業等の時短を活用する従業員に対する固定残業代の取扱いについては、残業を前提としない時短制度の趣旨を踏まえると、固定残業代を支給しないか、または所定労働時間の短縮割合に応じて固定残業代も同じ割合で減額することが適切です。
厚生労働省の「育児・介護休業法のあらまし」によれば、短時間勤務制度の適用を受ける労働者について、所定労働時間の短縮に比例した給与の減額は、不利益取扱いに当たらないとされています。固定残業代についても同様に考えることができるでしょう。
ただし、注意すべき点として、時短勤務者が実際に残業した場合は、通常の割増賃金の計算方法で残業代を支払う必要があります。また、時短勤務者に対する処遇について、就業規則等で明確に定めておくことも重要です。
6. まとめ
固定残業代制度は、適切に設計・運用すれば企業にとっても従業員にとってもメリットがある制度です。しかし、法的要件を満たさない制度設計や運用を行うと、多額の未払残業代請求リスクを抱えることになります。
固定残業代制度を導入する際は、以下の点に特に留意しましょう。
固定残業代制度の設計・見直しは専門的な知識が必要です。当事務所では、最新の判例を踏まえた固定残業代制度の導入・見直しのサポートを行っております。お気軽にご相談ください。
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